車輪の再発明について

「車輪の再発明」とは、
既に利用されているものを、もう一度作ることを指す。
一般的には、ネガティブな言葉に分類される。

筆者はコレを疑問に思う。

筆者の個人の思想であるが、
わからないものをブラックボックスとしたまま、
使いまわすことに抵抗を覚える。

問題が発覚した場合、
ブラックボックスが問題だと判別するのに時間がかかる。

判別できたとしても、
それを修正するのに、
やはり内容を理解していないと、修正は不可能である。

必要なものを必要なときに作る、姿勢もけっこうであるが、
本質的な理解も必要になるのではないだろうか?

おそらく、本質的な理解というのは、一朝一夕ではなしえない。
検討すべき分野が広域なため、すぐには対処できない。
だが、これはブラックボックスの対応と同じことである。

動いているからよしとするのか?
その理由付けは不要か?

では、技術というのは、
どの時点から身につけるものであるというのだ?

たしかに、
本質の理解は、どこまで行ってもきりがない。

でも、
キリが良いところを自分で見つける。
自作できなくても、構造は分かっている、
ことは根本的に必要だと思うのだ。

車輪の再発明を否定するのは、
車輪構造の革新は考慮しないということだ。
車輪は車輪のままとなるのである。

いま、必要なのは、
車輪に変わるものはないか?車輪をこう変更したら、もっとよくなる、
といったことではないだろうか?