哲学者のウィトゲンシュタインは、
「我々は、語りえぬものについては沈黙せねばならない※1。」
と結論づけ、これが哲学の大きな分岐点となりました。
彼が、哲学の殺人者と言われる所以です。
もし、この言葉を素直に受け止めるとしたら、
言語の多様性をどう説明するのでしょうか?
語りえぬからこそ、人は言語化しようとする。
だからウィトゲンシュタインも論考※1を書いたのではないでしょうか。
西洋は明確に語ることを好みます。
歴史的な背景がそうさせたのだと推測されます。
しかし東洋、とりわけ日本では、
語ることのできるものを明確に(誇張して)語るのを、
”野暮”と言って嫌がります。
野暮の反対語は”いき”です。
ところがこの”いき”という言葉は、皆さん感覚的には分かっているものの、
明確に言葉で定義するのが難しいのです。
まず言えることは”いき”は美徳意識※2だということです。
九鬼周造は”いき”を”民族的特殊性”としています※2。
「いき」は、意識現象としての「いき」の全体を、その広さと深さにおいて具現していることは稀である
個人的もしくは社会的意味体験としての「いき」の意味移入によって初めて生かされ、会得される
※2では上記のように結論づけます。
上記の2点を鑑みて、”野暮”の反対が”いき”であるとすれば、
”いき”とは言語化されることを拒む現象と言えるのではないでしょうか。
すなわち、”野暮”が言語化されるのに対し、
”いき”とは言語化されていないものを指しているのです。
”いき”は、その意味が明確化された瞬間に、”いき”は”野暮”になると思うのです。
ここで一旦まとめます。
1)いきは美徳意識である
2)民族意識の中に意味の明確化を嫌う現象が見られる
3)いきとは、明確化されることを拒む現象、であると定義する
以上がこの記事の結論です。
※1論理哲学論考
※2「いき」の構造