さて、なぜ前回長々と気候変動を論じたかというと、
気候変動などが思想に繁栄されているのではないか、
と主張したかったから。
その前に、
人間は変化を感じやすい特性を持つ
と定義したい。
今回比較するのは、ヨーロッパ人と日本人である。
ヨーロッパは、偏西風の影響で、
気候の変動が少ない。
したがって、温度変化はあるものの、
視界など四季による環境の変動は少ないのだ。
このことから、四季による太陽光の変動よりも、
一日の変動に注目されやすくなったと推測する。
この結果、イデア論が生じたのではないだろうか?
イデア論は、プラトンの提唱した論理で、ポイントは以下のとおりだ。
- 物事の本質はイデアである(又はイデア界にある)
- 我々はイデアを見ることができない
- イデアを投影した影としての<世界>を見ているに過ぎない
という考え方だ。
一日のという変化は、
昼や夜から、影に注目することになり、
それがイデア論に繋がったのではないだろうか?
とりわけ西欧の神話に、
昼の神、夜の神が注目されるのも、同じ理屈である。
したがって、西洋は、思想の根本に、
イデアと世界、というベースがある。
あらゆるものは本質でなく、ツールにすぎない。
オブジェクト指向は、その一例だ。
だから西洋では、
ある物事に対して、”自分がそれをどう受け止めるか”を重要視する。
対して日本である。日本は、四季の変動による変化が大きい。
今日と昨日にほとんど変化はないが、一年を通すと四季おりおりの光景がある。
光や影は、その置き方で自由に設定できるけれども、
四季の光景は自由にはならない。人間の手には負えない。
したがって、自分がどうこう解決するというよりも、
四季に応じた生活をして、自分をなじませるのである。
だから、受け止め方でなく、流れを重視する。
あらゆるものは本質であって、自分に本質はない。
そう考えると、
- 日本人は自分の意見を持つのが苦手だとか、
- オブジェクト指向が苦手だとか、
そういった理由が説明できる。
大雑把に比較するために日本を東洋とする。
東洋に主体性はない。あるのは全体の流れである。
西洋に全体性はない。あるのは主体性である。
どれが正しいとか良いとか、そういった論理ではない。
一日を重視する文化と、一年を重視する文化が相容れるだろうか?
根本的には何も解決しない。
しからば、思想は人間によって生じるものだろうか?
環境がそうさせたように思えてくるのだ。
もっと大きな枠で物事を考えた時、
人間の思想というのは案外ちっぽけで、
手のひらで泳がされているだけなのかもしれない。