光学と色彩


大学の授業や、色彩検定の参考書などを見ていると、
色は光の波長である
とされる。

そこまでは周波数の話題なのである。
しかしながら次の瞬間に、色相環の話題に移る。

色相環
色相環

ここで戸惑いが起こる。
周波数の話題が位相の話題に変わるのである。

今考えて見れば当然のことかもしれない。
把握できないほどの高周波はおそらく、
フラットを見なされるのだ。

今ではそう思う。

さて、筆者はそれまで、この話題の転換に納得行かなかった。
しかしそれには、わけがあった。



初めて光学という分野に触れたのは、ニュートンである。
彼は光は周波数によって分光でき、虹は七色だとした。

これに異を唱えた人物がいたのだ。
それは「若きウェルテルの悩み」や「ファウスト」で有名なゲーテである。

彼は、色彩は光の行為であると主張した。

この瞬間、光学と色彩論が分化したのである。

どちらも位相論に変わりはないのだけれども、
そのアプローチは異なる。

詳細は、本編を読んでもらうとして、
ここでは筆者の感想を述べる。

ニュートンの文章は、
公理系にもとづいて、議論が展開されていく。
理論的である。

対して、ゲーテは、
観察・認識の観点からアプローチを行なう。

超個人的な意見としては、ゲーテの方に共感を覚える。
ニュートンが公理系の立場に立っているとしたら、
ゲーテは観察者(我々)の立場にいるのである。

彼はきっと読者を意識した執筆を行なっている。
それは、ファウストのような抽象的内容とは違う。

ゲーテの印象が大きく変わる文献である。

ゲーテの序論を引用して、この記事を終わる。

ある物事の本質を、そのまま表現しようとしても、およそ実を結んだ試しがない。作用を認識することはできる。この作用をもれなく述べれば、物事の本質も包括したことになるかもしれない。

熱視は観察へ、観察は思考へ、思考は統合へを必ずや移行する。
だから世界を注意深く眺めているだけで、我々は既に理論化をおこなっているのである。