大人になって、書を書いたことがあるだろうか?
書を書くことには、他と違った魅力がある。
第一に、書を書くことに、生産的な意味などない。
単に印字をしたければ、ワードを用いれば良い。
真似事をしたければ、ペイントを使えば良い。
しかし、それは書になりえない。
なぜか。
墨を擦り、墨の香りを嗅ぎ、
力の強弱で線を書き、乾くのを待つ。
生産的な行為など、ない。
それが書である。
第二に、やり直しはない。
その一筆一筆が書である。感覚的に、あるいは手本を見ながら線を引く。
心が乱れると、失敗するときもある。
しかし時間が経つにつれ、それはなんとも味わい深い表現に見える。
そうした行為、事柄のひとつひとつが、
その時、その場に集中すること、
の意味を教えてくれる。
そこには、どうしてこの線を引いたのか、
どうしてこの太さなのか、
といった意味は無い。
禅は「今」「ここ」「起きていること」を受け止める。
この点において、禅は書の一部であり、書は禅の一部であると言える。
書を書く場合、
筆から引かれる「黒」に注目する。
しかし実際はそうではない。
「白」の空間を再設計しているのだ。
一筆のミスなどは関係ない。
全体が再構成されて初めて、
見えてくるものがある。
物事も同じで、作り上げてから、一歩下がって見ると、
また違った味わいが出てくるものである。