ネクタイは何のためにあるのか (中略) 本当に役に立つ機能は、家に帰ってそれを外すときの安堵感だけだ (中略) でもその安堵感は、ネクタイの存在を肯定するものなのか?(本文より)
かつてニーチェという哲学者が、哲学を物語調に展開しました。
(ツァラトゥストラはかく語りき)
本書”ベロニカは死ぬことにした”は、まさにこれと同じです。
一文一文が哲学をしています。
多くの哲学書がそうであるように、
注意して一文を読まないと、すぐに物語から振り落とされてしまいます。
筆者が普段、漠然と持っていた疑問は、
自分だけが持っているのではないことを教えてくれました。
さてネクタイの話ですが、本文の疑問はもっともだと思います。
なぜネクタイはあるのでしょうか?
本文の「外すときの安堵感」も同意できますが、
筆者はネクタイを男性器の象徴だと考えます。
古代は、男性器の大きさが反映の象徴だった。
しかし服を着ることで、男性器の大きさが判別できなくなった。
そこで、ネクタイが生み出された。
そう思えるのです。
同様のことを、日本の烏帽子に例えた文献を読んだことがあります。
いつの時代も男性器の象徴はあるのだと思います。
ここで、外すときの安堵感というエッセンスを加えてみます。
実は心のどこかで、男性は女性になりたがっているとは考えられないでしょうか?
映画「ルー・サロメ」で、パウル・レーが
「僕は本当は女になりたかったんだ」
と言うシーンがあります。
男性誰もが思う証拠ではないでしょうか?
筆者がそうかと問われると…なんとも言えないですが。
人々は各々、個性的で、それぞれの才能、本能、楽しみ方、そして冒険への欲求がある。ところが社会は常に、我々にある集合的な行動を強制し、人は何故そんな行動をとらなければならないのかなんて考えもしないんだ。
QWERTキーボードは良い例でした。
QWERTキーボードは、機械のインク詰まりを解消するために、あえて打ちにくい配列にしてあるのです。一旦そのキーボードが出回ったら、誰もそれに疑いを持たない。
この辺は、複雑系と似たような話を感じました。
結局、人間を含めたシステムは初期状態に依存する。初期状態が何故なのかは誰も解けない。
ということなんでしょうね。
総じて、とても興味深い本でした。
哲学系や生きてるってどんなこと?という話題に興味のある方はおすすめします。